116 田の神公園


仮設住宅建設中
115 寄生木(やどりぎ)

114 山口一丁目か黒森町か・・・

113 山口公民館

112 やどり木公園

111 やどり木公園


仮設住宅建設中
110 ぼけぼけの・・・山口川

109 二幹線

108 新町

107 いわてと笑顔に(復興編)より


写っているのは宮古の三陸鉄道アテンダント・佐々木さん
   
106 いわてと笑顔に(復興編)より


写っているのは重茂漁協の中村良成さんと高屋敷勝徳さん

105 いわて銀河プラザ

104 三陸復興 浄土ヶ浜



岩手県HP > 「三陸復興」フリー素材集より
103 いわて銀河プラザ

102 新町郵便局

101 本町 高京

100 本町 高京

99 宮古小学校鼓笛隊


一中(宮古市立第一中学校)の創立50周年記念誌『躍進』に載っている年表によると、
宮古市内小中学校連合音楽会が開催されたのは、
1957年(昭和32)の7月6日とのこと。

また、この音楽会が行なわれた宮高体育館ができたのは、
1954年(昭和29)9月23日と、
宮高創立80周年記念誌の年表に出ている。

思い出深い宮高の初代の体育館は、
2010年(平成22)の8月に解体された。
                      (じん)
98 小山田橋とラサの煙突


横浜在住の Tash さんという方からメールをいただいた。
宮古の思い出を記した文章で、アルバムから複写したという4枚の写真が添えられていた。
文章も写真も興味深いもので、了解を得て公表することにした。
ここに掲げた写真は、添えられていたもののうちの1枚である。
文章は 「渡船と小山田橋のことなど」 と題して、もう1枚の写真とともに 「投稿欄 ~ おらが宮古ばなす」 に載せた。
ぜひご覧いただきたい。 

ラサの煙突と、木造の小山田橋――
鮮明に記憶に焼きついている懐かしい光景である。
ただ、当時、自分では橋を、「吊り橋」とばかり呼んでいたような気がする。
小山田に架けられた橋だから「小山田橋」と呼ばれていたはずだとも思うのだけれど、
自分が「小山田橋」と呼んだという、はっきりした記憶はない。

八幡河原の渡船(とせん)も記憶には残っていない。
あとになって記録を読み、吊り橋が架けられる前は渡し舟があったのだと教えられた。
記録では「繰り舟」と書かれていた。
船頭はおらず、乗った人が自分で綱を手繰って向こう岸へ渡るのである。
築地と藤原を結んだ渡船には船頭さんがいた。
これはだいぶ後年まで営業していたから覚えている。
藤原の河口防潮壁の外側には渡船場の跡も残っている。
調べてみると、1975年頃まで営業していたらしい。

ちなみに、八幡河原の吊り橋は1958年頃までに架けられたらしい。
鉄筋に永久橋化されて正式に小山田橋と名づけられたのは1978年である。
                                              (じん)


97 宮古橋

96 藤原のラジオ塔

95 藤原

94 藤原

93 磯鶏石崎

92 黄金浜の龍神碑